目的を見失った指導の悲劇
寺小屋塾長の久本です。
今日は、かつて実際にあった、笑うに笑えない、ブラックジョークのような話。
生徒「先生、面接の対策お願いできますか?」
私 「ああ、国立大の推薦入試の面接の練習ね。」
生徒「いいえ、明日学校の先生にやってもらう、推薦入試の面接練習のための対策です。」
私 「はあ????」
いわく、担当の先生が「とても熱心」で、とにかく、面接練習の時間が長い。
さらに「志望理由」から何から、自分の好みに合うような答え方をしないと許してくれない。何もかもを、自分の思うような路線の話に変えられて、「僕ならこういうことを話す」などと延々と自説を語られる。
「熱心」なのはありがたいけど、「志望理由」の部分までいじられてしまうと、どんどん自分の気持ちじゃなくなっていくし、面接で、他人の気持ちをしゃべらされているように感じてしまう。
自分としては、自分の志望動機はいじられたくないし、変えたくもない。
今から自分の志望動機を話すから、それを先生から直されなくても済むように、伝え方、表現の仕方などを指導してほしい。
でないと、自分としては、併願校の私学のための勉強がしたいし、前期日程で受ける大学の二次試験の教科の勉強もしたい。面接練習だけにあまりにも時間をとられてしまうと、どこにも合格できなくなってしまいそうで、不安でたまらない。
とのことでした。
指導者の「熱心さ」の空回り。笑えない話ですよね。
なぜこんなことが起こるのでしょうか???
先生たちは「熱心」に指導をしているはずなのに、その「熱心な指導」がかえって受験生を傷つけ、不安にし、苦しめているのだとしたら、本当に笑えない話です。
そもそも、受験の主役は受験生本人です。聞きようによっては無責任に聞こえるかもしれませんが、合格するも、不合格になるも、最終的には本人の問題です。
「親身な指導」と「指導の押しつけ」は全く違います。
合格はあくまで受験生本人の努力の賜物です。
間違っても指導者が「俺が合格させてやる」とか「俺が合格させてやった」などと考えてはならない。
指導者にできることは、ただひたすら受験生の中にあるものを引き出すお手伝いをし、受験生に寄り添い、伴走するだけ。
まして、本人の「志望動機」を、大人にとって通りの良いもの、面接官に受けそうなもの、合格しやすそうなもの に変えさせることなど、するべきではないと考えます。(もちろん本人とのコミュニケーションの中で、本人の気付いていない視点からの考察のヒントを与えるとか、表現の仕方を指導してやるとか、考えを深めてやる とかは、指導だと思いますが・・・)。
でないと、「生徒のため」のはずの指導が、「学校のため」「学年団のため」ひいては「自分の満足や評価を上げるため」になってしまいます。
愚直なようですが、「指導の目的」を絶対に見失ってはならないと考えます。