進学実績数よりも大切なもの
寺小屋塾長の久本です。
先日に続いて、敢えて書かせていただきます。
かつて、世の中の価値観がある程度安定していた時代には、「生徒に言うことを聞かせ、思う通りの結果を出させてあげることのできる教師」が指導力のある教師でした。
でも、今もそうでしょうか。
私は、これからの教師に必要な指導力は、「言うことを聞かせる力」ではなく、「生徒の気持ちに寄り添い、そのモティベーションと能力を引き出す力」「生徒としっかりコミュニケーションをとる力」だと思っています。
決して、綺麗ごとを言っているわけでも、生徒におもねっているわけでもありません。生徒の気持ちに寄り添うことと、生徒の機嫌取りをすることは全く違います。
現代のような「価値観流動の時代」には、きちんと生徒とコミュニケーションをとらないと、教師にとってのベネフィットと生徒にとってのベネフィットの間に隔たりができてしまいます。そして、その隔たりが、結果としてお互いの不信感の原因になることを、私は恐れるのです。
例えば、先日の例で言えば、「できることなら国公立大学に進学する」ということが、誰にとっても共通のベネフィットだと言える時代なら、
できる限り生徒が国公立大学に進学できるように指導し、その結果として、学校の国公立大進学実績数が上がり、学校や学年団の評価も上がる
というのは、みんなのベネフィットであり、みんなで喜べることです。
でも、当の生徒本人がそれを望んでいないのだとしたら、国公立大への進学が、なんら生徒本人の満足感や将来の幸福を保証するものでないとしたら、
それは大人の側のベネフィットを生徒に押し付けているに過ぎません。
それが結果として、
「先生が熱心に指導しようとすればするほど、生徒のやる気が失われ、生徒を苦しめることになる」
とか、
「オープンスクールや学校説明会で、担当の先生たちが学校の成果や実績を説明し、強調すればするほど、受験生たちの気持ちが離れ、志願者の数を減らすことになる」
という、いわば現場の先生たちの熱意の空回り につながっているように感じるのは、果たして私だけでしょうか。
教師と生徒の信頼関係のないところに、教育は成立しません。
教育の現場において、進学実績数よりもはるかに大切なものは何なのか。
日本の教育はもう一度原点、原理原則に立ち戻るべきだと、私は思います。